2006年02月
偽装チクビで考える  (2006.02.24)

世間では耐震偽装関連のニュースも一段落した昨今ではあるが、先日近所のコンビニに行った折、『花井美里の偽装チクビ』と表紙に書かれたプレイボーイを見つけたので、気になってそのグラビアをパラパラとめくってみた。偽装チクビとは本物の乳首の上に、シリコンか何かで作った人工乳首をつけたものである。着エロ路線の決定打として登場したこの偽装チクビという現象によって僕の中に生じた疑問点をここで少し整理したい。

プレイボーイ誌の偽装チクビは、誰が見てもニセモノと分かる水準の精巧さだったのだが、仮に本物と区別がつかないくらい形状もそっくりでリアルな偽装チクビ(以下、リ装チクビ)が登場した場合、次のような疑問が生まれてくる。
【1】リ装チクビを見た男が感じる興奮は、その下に隠された本物を見た場合と異なるか?
【2】リ装チクビで登場したアイドル本人が感じる羞恥心は、本物を露出した場合と異なるか?

【1】は、人間が乳首をいかに認識しているかという問題だ。
ここでは「リアルな偽装チクビ!花井美里」などとグラビアの横に書かれている場合、つまり本物であることを否定する情報が付与されている場合を想定して場合分けを行なう。
(a)偽装を知っても興奮度が全く変わらないのであれば、人間は乳首を視覚的真実のみによって捉えていることになる。
(b)逆に、偽装を知るや興奮が萎縮するのであれば、人間は視覚的真実以上の真実を乳首に対して求めていることになる。それは言うなれば、乳首が持つべき本来の機能(授乳する)を乳首に求めていることになるだろう。
これが動物ならば、反応は(a)だろうと容易に推測できるが、我々人間については(b)の可能性も否定できない。(b)ならば、人間の性的興奮は基本的に視覚に代表される感覚的情報によるとしても、「リ装チクビだ」等の論理情報によって簡単に興奮が萎縮されることになり、つまりは性欲という最も本能に基づいた反応にさえも理性が介在する余地があるということになる。
映画『マトリックス』で描かれた主人公ネオ達はまさに(b)の段階にあった。自分達が現実と思って暮らしている偽装世界(マトリックス)は、現実とまったく同等な感覚的刺激・興奮を与えてくれているにも関わらず、偽装を知ったネオ達はマトリックスを打ち破って真の現実を取り戻そうと試みるのであった。

【2】は人間の皮膚と自己認識に関する問題だ。
本物の乳首を露出することに羞恥心を感じるアイドルが、本物の上にリ装チクビをつけて登場する。本物の乳首のそっくりなコピーとして作られているので、読者もリ装チクビを見るだけで、直下に隠された本物の形状を想定することが可能である。ここでこれらの理由からアイドル本人は、
(a)リ装チクビを「自己の延長」と認識し、本物露出時同等の羞恥心を感じる。
(b)外観は本物そっくりでも、実際には本物は露出していないのだから、手ブラ程度の羞恥心しか感じない。
(a)(b)どちらの反応をするかは、もしかしたら個人個人で異なるのかもしれないのだし、ここでまたグラビア横に「えせチクビ大胆露出!」などと、本物であることをと否定する情報が併記されていた、という条件を加味すると、さらに場合分けが必要になるだろう。この時読者が偽装であることを認識し、リ装チクビの形状と本物の形状に因果関係を読み取らないだろう、といった理由で本人も羞恥心を感じなくなるのだろうか?
いい加減これ以上書くのは、あまりに長くなりすぎるから割愛するが、結局僕が抱いた疑問を要約すると、人間は自分の制御可能な範囲を自己と認識するのか、それとも自分を偽装した延長部までをも自己と認識するのか、という疑問なのである。
以前『ドラえもん』で、着ぐるみ製造マシンを使って完璧に他人になりすますエピソードがあったが、普段ちっともモテないのび太が、モテる出来杉の着ぐるみを着て町を歩き、女の子にキャーキャー言われたとしたら、のび太はそれを嬉しいと感じるだろうか。反対に出来杉がのび太の着ぐるみを着てジャイアンやスネ夫に馬鹿にされた時、出来杉は屈辱感を感じるのだろうか。そして出来杉のふりをしたのび太が、学校で先生に指されても全然答えられなかったとき、中ののび太は劣等感を感じるのだろうか。それともクラスメイトや先生から見た外見が出来杉なので、かえって愉快に思ってしまうものなのだろうか。実際には精巧な着ぐるみ製造マシンなどないから、こういった場合の意識がいかなるものかといった実証は困難なのだが、将来的に人間のクローンが出来ることも考えられる。その時に我々は自分のクローンのとった行動に誇りや羞恥、ましてや責任感を感じるのだろうか?
やはり人間の精神は、その宿る肉体と不可分なように思える。人間のアイデンティティは原初的に、「この自分の精神と、この自分の肉体が(少なくとも死ぬまでは)永遠に不可分である」ことを前提にして形成されているように思える。しかし髪の毛を切っても、爪を切っても、切り落とされた物体をすでに自己と認識しなくなる例に見るように、実際の線引きにおいて境界はいまいちよく分からない。はたして、どこまでが「自分」なのだろう?

こういった疑問をきっかけとして僕は、僕という自分自身のアイデンティティの正体の中へ、今後とも降りていかねばならないのだろう。もはや偽装チクビは単なる着エロというカテゴリーに収まらない。偽装チクビは現代においていかなる哲学書や思想書よりも人間の深淵へと向かう坑道を照らしてくれる、輝くように明るい松明なのであった。


カーリング・トリノ  (2006.02.22)

毎回五輪はあまり見ない方なのだが、テレビでフィギュアを見た。
荒川はとても上手で美しい演技。さすがという感じだ。荒川の雰囲気って、どこかヅカっぽい。宝塚出身じゃないかって思えてくる。
村主は演技力が光るが、どちらかというと顔芸の印象。「表情テクニカルポイント性」が導入されたら間違いなく世界一。
ミキティーはいまいち上手いとは思えない。そもそも体型がフィギュアっぽくない。どちらかというと卓球などの方が似合いそうだ。でも、毛深さに金メダル!
こうしてみると、今回の日本フィギュアは、スポーツよりも劇団風の選手が多いのか。

本題のカーリング。
今回の五輪は女子カーリングばかり放映されていた気がするが、カーリングのスポーツとしての面白さはさておき、理由はやはりチーム青森の選手が魅力的だったからだろう。
林は「美人系」、本橋は「高校のクラスメイト系」でかなり人気があるようだが、やはりテレビに映る機会の多い主将の小野寺は最も人気が高いようだ。小野寺は美人ではないが笑顔が人好きのする顔だし、どこにでもいそうな娘、といった雰囲気が高評価につながっているのだろう。
「大学の時の彼女に似ている」
ネット上の掲示板では、そういう書込みが多かった。この「元カノ顔」というのは非常に的を射た形容だと思う。大学の軽スポーツ系サークルによくいそうな顔がまさに小野寺なのだ。全国の大学のテニスサークルかバトミントン部から、女子マネかムードメーカー的な子を1人づつ選出してCGで合成したら、きっと小野寺の顔とそうはかけ離れてはいまいと、そんな気がするのである。
あと、カーリングには「おやつタイム」があるのが、なんだかかわいい。


東亜のジェントリ  (2006.02.11)

英語のジェントルマンに『紳士』という訳語をあてたのは、江戸の後期か明治の頃だろうか。
この『紳士』という漢字には、山高帽にステッキを持ちロンドンシティを闊歩するジェントリーな雰囲気が見事に表現されている感じがして、昔の日本人はなかなか訳語のセンスが良いなぁ、と思っている。
僕なんか今でも『紳士』と聞くと、足長オジサンのような慈善家とか、大正末期に丸ノ内のレンガ街や竣工したばかりの丸ビルを出入りする長身のオジサマを想像する。イメージは全然悪くない。


ここで気になるのが、『紳士』だけならイメージは上々なのに、その後ろに『服』をつけると、なぜかイメージが急落下することだ。『紳士服』という響きの中に、すでに大英帝国の面影は存在しない。『紳士服』というと、どうしてもまずコナカとかサカゼンが思い浮かぶ。場所は足立区の環7沿いか、馬喰町か岩本町の洋品問屋街、あるいは近所の西友。かなりひいき目に見ても、デパートならせいぜい浅草松屋とか、錦糸町西武あたりだ。
『紳士服』のイメージ落下は業界でも前から意識していると見え、都心へ向かうほど『紳士服』の表記が減少する傾向にある。例えば新宿伊勢丹本店では、男専門の棟に『メンズ館』とつけられているように、『紳士服』ということばを極力排除した様子が見られる一方で、常磐線で上野から20分の松戸伊勢丹では、フロア案内にもいまだ『特選紳士服』などの表記が優勢だ。


ところでデパートでは、女物にも『婦人服』という表記がよくあるが、都心ではこれらの表記が『紳士服』よりもいち早く横文字でカモフラージュされていく運命にあった。女物は市場規模が比較にならないほど大きく、年代も細分化されているため、『メンズ』『ヤング』の2種類くらいしかない男物に対し、より混沌とした状況を生んでいる。若者向けは『ティーン&ポップ』に、OL向けは『キャリア』だとか、流行物は『コンテンポラリ』、主婦向けには『トラディッシナル』や、中高年世代には『ミセス&ミッシー』などと、何を言いたいのか理解不能な表記が多数誕生し、デパートの売場担当者のネーミングセンスの限界を感じずにはいられないのが、平成の時代のデパートであった。
そもそも、僕には『特選婦人服』の『特選』がよく分からない。『紳士服』の『服』同様、『特選』が付くことでますますイメージダウンが加速している気がしてならないのである。


ポスト・ディカプリオ  (2006.02.10)

先日知人数人と喫茶店にいた際に、ロハス(LOHAS:Life Of Healthy And Sustainability)の話題になったが、ロハスの意味を知らない一人が、「ロハスって何?」と質問してきた。
僕はすかさず「プリウスに乗ることだよ」と教えてあげたのだが、他の人に「お前、それはちょっと茶化しすぎだよ」と叱られた。

第二次世界大戦が終わった頃、ドイツの哲学者アドルノはこう言った。
「アウシュビッツ以降に、詩を書くことは野蛮である」
この言葉には一般には数通りの解釈がなされているが、僕自身は【強制収容所での蛮行によって、文明化社会が持つ空前の残虐性=我々の正体が克明に立証されてしまった世界において、今さら恋とか愛とか正義とか友情を描いた詩を書くこと自体が、世界の現実から目を背ける行為であるだけでなく、近代文明の抱える本質的問題を隠蔽する行為に他ならず、それこそ一瞥して野蛮と感じる諸行為と比べてもなお、はるかに野蛮な行為なのだ】の意味に解釈している。

話は戻って、ロハスってどうだろう。
先に誤解の無いように言っておくが、僕も環境保護は大切だと思うし、持続可能な社会の実現の重要性にも賛成だ。しかしこの世界には、もっと先に解決すべき問題が山積みではないか、先に目を向けるべき事実があるではないか。それは貧困や差別、紛争や難民などの容易に視覚化される問題にとどまらず、そもそも高度化した現代社会において、我々の想像力を遥かに超えたレベルで人が人に隷属させられているという事実。たとえば僕が、より美味しいコーヒーを、より安く飲みたいと欲求することが、はるか中南米において奴隷的プランテーションを促進するといったグローバルレベルの因果関係。「ニューヨーク上空で蝶が羽ばたくと、北京が嵐になる」といった諺があるが、それが現実に起きるのが現在の世界であり、その構造的問題の根の深さに「世界はアウシュビッツの鉄条網の中に存在しているのだ」といったメタファーにも説得力を感じざるを得ない。

率先して愛車をトヨタのプリウスに切り替えたディカプリオの数々の【ロハス的】行動は、一貫性と個人的な意思の裏付けを感じるし、別に非難するつもりはない。ただ、群盲な僕たち消費者は、そのロハスを記号として求める。なぜならロハスは、非常に口あたりもよい上、記号として、またファッションとしてロハスを身にまとえば、自らを「オサレで進歩的なモラリスト」として演出することが容易だからである。そして記号的なロハスが流通すればするほど、先に述べた「より優先的に解決すべき問題」だけでなく、「持続可能な社会への志向」というロハス本来の目指すべきテーマすら見えづらくなってくるように思える。ロハスの普及こそが、実はロハスを衰退させるのである。
僕はここに宣言する。


「ディカプリオ以降に、プリウスに乗ることは野蛮である」


結局、この言葉を言いたいがためだけに、本稿を書いた。だから真面目な反論とかは極力ご遠慮願いたい。そして社会的テーマとは袂を分かち、自身の健康と幸福のためだけに、ロハスを導入することをお勧めする。でもその際に別に「ロハス」っていちいち声に出して言わなくていい。黙ってライフスタイルを取捨選択すればいいだけである。


苦手の選択の場合 〜第一章〜  (2006.02.09)

目を開けると、もう部屋の中はかなり明るくなっていた。締め切ったままカーテンは、外からの光を多めに含んで、もともと無地で真っ白なはずのその生地の表面は、オフホワイトとレモンイエローを足して2で割ったような、そんな色地に変わっている。
太陽の位置が動いたからか、2枚のカーテンの隙間から強い直射日光が、顔をめがけて飛び込んできた。
とっさ目を閉じる。
しかし、光はまぶたの皮膚を通して漏れてきて、淡い闇を暖かみのある赤で染めていく。それは、充実の色。生命の赤。眼球に太陽の温度を感じる。目を閉じているのに、世界はそこに見える。

そして束の間。
突然、違う世界に連れて行かれた。強い日差しの海岸、遥かに浮かぶ島、見慣れない樹木、真っ黒に日焼けした行商人。
私といえば、ボーダー柄のタンクトップに空色のショートパンツを着て、波打ち際に向かって砂丘をくだる。沖から柔らかい風が吹いてきて、ふっと日焼けオイルの匂いがした。
タイ?バリ島?マレーシア?
いずれにしても私は南方の国にいるようだ。

けたたましい音にギョッとして、私はベットから跳びあがった。聞き覚えのある高音が部屋中に鳴り響いている。あたりを見回すと、机の上に置かれたデジタル表示が目についた。
10:58
まだ南国にいる気分のままだったが、ここは紛れもなく私の部屋だ。
おかしな夢だ。海岸の記憶には現実を超えた現実感があった。でも、本当の私は日本からまだ一度も出た事がない。
まだ少し寝ぼけていたのかもしれない。私はまず10:58という数字を思い、次にその意味を考えた。そしてようやく今日が3月11日の土曜日だということを思い出した。私はベットの向かいにある真っ白な壁紙の上に、10文字ほどのアルファベットを思い描き、次にその形を指でなぞった。そして、そのまま人差し指を頭の上に持っていき、クシャクシャになった髪の毛を何度となく巻き取った。ナポリタンを食べる時のように、くるくるくる、くるりと。

先ほどから部屋中に響いている音はまだ鳴りやまない。
その音の、少しテンポのおかしな反復性が心地良かったので、音に委ねて上半身をふわふわと揺らしていると、その音が玄関のベル音だということに、私はようやく気がついた。
私はピンクのボタンダウンを羽織って玄関へ急ぐ。それは部屋着としては一番古いシャツで、春先にはだいたい椅子に掛けっぱなしになっているものだ。
ドアを開けると、背が高く青のボーダー柄のシャツを着た青年が立っていた。まだ3月だというのに、顔と腕は真っ黒に日焼けして、硬そうな黒髪を立ち上げた額には、うっすらと汗が滲んでいた。青年は「ここにサインをお願いします」と言ってほほえみ、私が伝票にサインをすると、下駄箱の上に小包を置いて去っていった。開けっ放しになったドアを閉めようと私が廊下まで手を伸ばすと、外には3月とは思えない冷たい風が吹いていた。

部屋に戻って、机の上に小包を置く。
小包に貼られている送付状は見たことのない種類の物で、私の住所と名前は英語で書かれていた。差出人は空欄で、品名には日本語で「苦手の選択の場合」と書かれていた。次に小包を裏返してみたが、【KUL-NRT】と書かれたラベルと、カクテルグラスが根元から割れた絵のシールが、1枚ずつ貼られているだけだった。
厳重に梱包された小包を開き、幾重にも巻かれた緩衝材を取り除く。最初に出てきたのはコーヒードリッパーだった。プラスチック製の透明のドリッパー。次にMade in Chinaと銘打たれたガラスのポットが入っていて、それに製造者の明記もされていない無地の紙箱に入ったペーパーフィルター、それが贈物の全てだった。
緩衝材の間を何度も調べてみたが、送り主からの手紙の類はとうとう見つからない。私は小包に貼られている送付状やシールを丁寧にはがすと、皺を伸ばして机の上から2番目のひきだしにしまい、空箱や緩衝材をビニルひもで縛って下駄箱の上においた。
それから窓辺に行って、ベランダ越しの世界を見る。空は雲ひとつなく快晴なのに、ときどき突風が吹き、金属製の窓枠をバタつかせている。晴れたら今週末こそは買い物にでも出かけようと、火曜日から内心計画していたのだけれど、買い物は延期にして、私はクアラルンプールから成田を経由して届いたらしい、この不思議な贈物と今日一日付き合ってみることにする。
(つづきません)


息抜き、手抜き  (2006.02.07)

最近コラムが短編集みたいになっているので、今日は普通に近況報告でも。
・いまさら『のだめカンタービレ』読み始めた。相当な時代遅れです。漫画喫茶で読もうと思ったが、僕は読むのが遅いので、結局買いだした。390円×15巻。結構な出費だ。面白いか?と言われれば、別に普通。野田恵のキャラと、二ノ宮先生の絵の下手さが面白くて読む感じ。あとプリごろ太。プリリンごろ太、プリごろ太。
・『リリイシュシュ』、いまさら見る。映像とてもきれい、内容よし。さすが岩井俊二!
・大沢たかおの『深夜特急シリーズ』見始める。特に感想はなし。
・ヴェンダースの次回作、『アメリカ〜』は期待できそうにない。トレーラーもダサい。なんとなく『パリ、テキ』の焼きなおしかねぇ。『ランドオブ〜』がトレーラーからして良かっただけに、ちょっと怪しいねぇ。
・鼻の頭がくさい。風呂入った後とかに、鼻頭から油が出てきて、嗅ぐとくさい。
・大学の時、メアドがunkoman(ウンコマン)の女友達がいた。しかもそのアドレスで就職活動突入。有名企業に内定した。でも、人事の人もunkomanって打つの嫌だっただろうなぁ。
・今日からちょっと短編書き始めた。思いつきで。今日原稿用紙6枚くらい書いた。
・酔ってないです。


おやすみカシューナッツ  (2006.02.04)

【午前6:40 エレベーター、故障中】
僕は仕方なく、エレベーター脇の重い扉に手をかける。
まるで取り付けられてから一度も握られてないかのように、ドアノブは限りなく冷たい。扉の隙間からは絶えず風が漏れてきて、扉をますます重くさせ、悲鳴のような風音が、僕の中の寂寞感をさらに膨張させる。
僕はうつむいて非常階段を昇り、5階に辿り着く。部屋の鍵を開けると一番に、じゅうたんの匂いがする。ここにいる時間なんて、一日たった数時間だけなのに、そこには確かに僕自身の生活の匂いがある。
【午前6:48 帰宅】
僕は椅子にコートを掛けると、一人用のやかんでお湯を沸かす。東京の水道は、飲めたもんじゃない。冷蔵庫から500mlのペットボトルを2本持ってきて、1本を開けて、その白神山地由来などと書かれた水をやかんに注ぐ。
【午前6:52 お湯、沸く】
メリタのドリッパーの上で、粗挽きのコロンビアが、徐々に湿気を取り戻していき、やがて強い香りを立てて、ガラスポットの底に淡い飛沫が飛び散る。その液体の流れを見つめていると、夜勤の疲れが一気に僕を襲う。僕はもう1本のペットボトルを開け、流しに干してある小さなタンブラーを手に取り、そこに水を注ぐ。そして半分ほど飲んでから、今度はできたてのコーヒーに口をつける。ブラックで。
【午前7:11 携帯、鳴る】
会社の番号。きっと悪い呼出に違いない。やれやれ今日はせっかくの休日だというのに。
僕は携帯が鳴る間、ずっとコーヒーカップの湯気を見つめている。それは琥珀色の表面の至る場所からまちまちに立ちのぼり、ときに上のほうでひとすじに収斂され、いずれまもなく消えてゆく。
僕は1回溜息をつく。電話には出ない。
甘さが欲しくなったので、陶器の小鉢から角砂糖をひとかけらとりだして、端をかじる。そしてまたコーヒーをひと口だけすする。
【午前7:16 また携帯が鳴る】
僕はコーヒーカップを右手に持って、窓辺に立ち、外の世界を眺める。砂漠の空のような灰青色に雲ひとつなく、強い直射日光が僕の目を刺激する。いま東京に朝が生まれようとしている。
しかし携帯は鳴り止まない。
僕はテーブルの所へ行って、携帯の電源を切る。そしてもう1杯コーヒーを作り、クリームを少し加えてから、カシューナッツと交互に、一気に飲み干す。最後にタンブラーに半分残った水をすっかり飲んでしまってから、僕はカウチに横になる。
僕の生活を遮るべきものなんて、本当は何もない。

そんな、じんわりとする時間。コーヒーとカシューナッツと朝焼けの東京。


build by HL-imgdiary Ver.1.25